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食堂車と営業事業者割り当てのお話

1960年代、優等列車には食堂車は必ず連結されていた。

1960年代の国鉄では優等列車と呼ばれた急行以上には原則として食堂車が連結されていました。

当時は、特急列車の本数も少なく、特急は文字通り、「特別な急行」でありおいそれと乗れると言う雰囲気ではありませんでした。

そこで、一般には急行(普通急行)を利用するのが一般的であり、夜行列車・昼行列車に限らず、多くの食堂車がこれら列車に連結されていました。

さて、この食堂車ですが、当然のことながら国鉄が直接経営していたわけではなく、業者に委託する形となっていました。

その代表格は、日本食堂でした。

日本食堂【通称にっしょく】は、列車食堂を営業していた 伯養軒(仙台)と駅構内で食堂などを経営していた精養軒(上野)・東松亭(大阪、後の水了軒)・みかど(神戸)・東洋軒・共進亭が共同で出資した会社だそうで。(この項目はwikipedia参照)

列車食堂というと「にっしょく」というイメージが強かったのですが、にっしょく自体は昭和13年に設立と有りますから、戦前から日食は食堂営業していたみたいなのですが、帝国ホテルも特急列車を中心に洋食を提供していたように記憶しているのですが、いかんせん資料が見当たりませんでした。
ご存じの方おられましたらご教示いただけると幸いです。
さて、記事は国鉄線の昭和43年10月号からキャプチャーしたものですが、列車食堂の割り当てが決まったと書かれています。
当時の食堂車では、当然のことながら什器類は全て会社持ちであり、受持ち列車が変わる場合は什器類は全て入れ替えだったそうで、国鉄からの貸与品というのはなく、作り付けのコンロなど以外は食堂事業者の負担だったそうです。
気の毒なのは、機関士の運転ミスで大きく車体が揺れたりして什器類が割れてしまったなんてこともあったそうですが、その時も国鉄は責任を負わなかったそうです。
これは、余談でしたが。
下記の話を見ていますと、「特急とき」で昭和37年に聚楽が食堂車営業に参入したのですが、特急ときは最初は日本食堂がリ業していたようで、昭和43年に初めて1往復聚楽に割り当てたと書かれています。
これは私も知らなかったです。
さらに、意外だったのが、鉄道弘済会が普通急行列車ですが、32.5往復の列車の列車食堂の営業をしていたと言う事実脱も驚かされます。
それと、0.5往復と言うことは片道ですので、こうした場合は当然のことながら終着駅で什器類を降ろして、別の列車に入れ替えると言ったことを繰り返していたのでしょうね。

 

 

 

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国鉄時代の二条駅、備忘録

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二条駅とは、山陰本線にある駅ですが、実はこの駅のことを調べて行くと色々と面白いことが見えてきました。

 

二条駅は、日本で二番目に古い現存駅舎だけでなく、戦前はある荷物の取扱量でも日本で2番目だったそうです。

ちなみに、1位は、秋葉原だったそうです。

 

ちょっと考えてみてくださいね。

 

 

実は、二条駅で日本2位の到着を誇ったのは、薪炭(炭)でした。

二条駅は、京都の中心部になるのでここから西陣地区を中心に洛中と言われた京都市内に配送されたそうで、二条駅の北側にはそうした薪炭を扱う問屋が軒を並べていたそうです。

二条駅

鉄道が開通するまでは、高瀬川(運河)で洛中まで運ばれていたそうですが、鉄道の開通により鉄道で運ばれるようになったと言われています。

 

同じように、京都市内の暖房用などの石炭も一手に引き受けていたそうで、駅構内には貯炭場が設けられていたと言います。

 

その後、エネルギー政策の転換で石炭は石油に替わり、石炭や薪炭の扱いは減少し、その代わりの目玉となったのが自動車でした。

二条駅で実は、新車の自動車の受け入れを行っていたそうで、二条駅から滋賀・鳥取方面に向けて自動車が配送されていたそうです。

ただ、スト権ストで一気に信用を失い、自動車輸送は廃止になってしまいました。

貨物輸送が不振になってからは、広いヤードは今度は留置車両の保管場所となり、583系などが一時期留置されていました。

583系

余談ですが、583系が近郊型電車に改造されることになったのか・・・単に寝台電車が余剰になったからという理由だけでなく、電気機器を更新していたことも理由だったと言われています。

実際、583系電車は昼夜兼行電車でしたから、走行距離は通常の電車と比べれば倍走ることになりますので、電装品の劣化も早く50年代に更新が行われていたからと聞いたことがあります。
何れにしても、二条駅で留置されていた583系も419系などに改造されて活躍、寝台電車としての活躍の時期よりも近郊型電車での活躍の時期の方が長かったような気がします。
二条駅の話から、全く違った方向に行ってしまいましたね。
申し訳ございませんでした。

昭和30年代における、自動車の鉄道輸送

皆様こんにちは、今回も国鉄線見つけた面白い記事について書かせていただこうと思います。

国鉄における自動車輸送と言えば、ク5000を使った自動車輸送を覚えておられる方も多いかと思います。


画像 Wikipedia

 

自動車専用列車として、新車を運ぶのに使われ自動車の移動には汚れや傷を防止するため、車カバーがかけられていたのを写真で見た記憶があります。

ただ、古い写真を見ていますと移送時はカバー等を被せずに運転していたこと写真もあり、カバーしていたのは写真撮影用なのかそれとも・・・・と思うのですが、自動車カバーを収納させる場所を設けていたと言う記述もあるのでその辺はご存知に方おられましたらご教示いただければ幸いです。

百済駅における車両積卸風景 天鉄局30年史のアルバムから引用
なお、国鉄時代のク5000は1900CCまでの車を10台、20000cc以上で8台、軽自動車で12台を積載できるようになっていたそうですが、これから紹介するのは、専用貨車の「シム1000形」と呼ばれる私有貨車です。他にもダイハツがシム2000、三菱自動車もシム3000形と呼ばれる同系車をだしているようです。
今回も国鉄線昭和37年10月号に掲載されていた記事を参照しながらお話を進めたいと思います。
なお、閲覧にはパスワードが必要ですので、興味のある方は財団法人交通協力会のトップページからアクセスしてパスワードを取得されては如何でしょうか。
ということで画像等は、国鉄線昭和37年10月号から借用いたしました。
早速見ていきたいと思います。
何とも厳めしい車両ですが、これが車を運ぶ貨車ですと言われても正直ピンとこないかと思います。
実は、この貨車に6台の車が乗るのです。
実はこのように、貨車をクレーンで吊るしながら積み上げたそうです、この写真ではパブリカを積んでいるようですが、こんな方法で本当に大丈夫と心配してしまいます。
実は、この写真からは見えにくいのですが、下の段に2台の車が積んであります。
その証拠写真がこれ
既にナンバーも付いている車もあるのが興味深いのですが、何ともアクロバティックな積み方ですよね。
もう一枚
ちなみに初代パブリカですが、
ここに本文を記入してください。
幅  1415mm
高  1380mm
であり、車両限界が幅3.0mですので、下の2台は隙間は数センチしかなかったのではないかと思います。
昭和37年の国鉄線の記事によりますと、昭和30年代後半には新車の配送はその多くが自ら車をディラーまで運転して配送するのが一般的でコストも安くなるので積極的に自走になったそうですが、人件費の高騰などでその方法も必ずしも有利は無くなってきたことから再び鉄道を利用してもらえる気運が高まったことから、効率よく積載できる貨車を開発することとしたそうで、トヨタ自動車に中部支社(当時は支社制度があり、支社の配下に各管理局が設置されていました。)が働きかけて私有貨車を作ってもらいそれを国鉄が輸送する形態となったものでした。
上に載せる自動車は専用パレットであり、回送時は積み重ねて発送駅まで戻るようになっていたようです。
結果的に、こうした貨車を作ったことがその後より効率的に運べるク5000を生み、その利用も爆発的に増えるのですが、昭和48年頃から相次ぐ国鉄のストライキや運賃値上げ等から利用が低迷したそうです。
昭和53(1978)年10月には、日産自動車の輸出用自動車を輸出港に運ぶ専用列車「ニッサン号」が宇都宮貨物ターミナル〜本牧埠頭間で運転されましたが、こちらも 昭和60(1985)年3月ダイヤ改正で自動車の鉄道輸送はひとまず終了しますが。翌昭和61(1986)年5月に再び「ニッサン号」の運転が再開しましたが、往年の華やかさはなく、平成8(1996)年3月にク5000による運行は廃止されたとされています。
今は一部は、コンテナ車による輸送が行わたと聞いております。

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名神高速バス 最初の一歩

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皆さまこんばんは、現在は東名高速道路には昼夜を問わず、高速バスが走り、特にWILLER EXPRESSに代表される、高速バス事業者やそれ以外の中小のツァーバスを含め数多くのバスがJRの夜行列車に代えて全国にそれこそ走っています。

私も、夜行バスをよく利用するのですが、夜間の高速のパーキングエリアなどでは高速バスとトラックでSA(サービスエリア)を占領しているのではないかと思わせるものがあります。

Wiiler Express

今は高速バスがこれほど走っているわけですが、そもそも高速バスのスタートは国鉄であったと意外に思われる方も多いのではないでしょうか。

日本最初の高速道路が開通したのは、名神高速道路、栗東インターチェンジ(IC)〜尼崎インターチェンジ(IC)間(71.7km)が昭和38年(1963)7月16日に開通したことから日本の高速道路の歴史は始まりました。

国鉄では昭和36年から高速道路専用バスの試作を行ったそうです。

最初の試作車は昭和36年には早くも出来上がっていたそうで全体に丸っこくて、パッと見たときにどちらが前なの?と思わせるスタイルでした。下図参照

国鉄線昭和38年

国鉄線、昭和38年8月号から引用

 

こちらのblogに当時の試作車に関連する記事が出ていましたので、リンク貼らせていただきます。

https://ameblo.jp/yamaya-1210/entry-11899738497.html

 

その後改良が加えられ、高速道路が開業する直前には、高速バス専用車が完成しています。

その車両が下の写真になります。

試作車の頃と比べるとずっと洗練されています。

もちろん、今の感覚で言うと古臭さは禁じ得ませんが・・・・

側窓は、当時のアメリカの客車を彷彿させるような窓ですが、このバスの特徴は高速バスであるということから窓は全て密閉式となっていました。

また、車両最後部には車内トイレが設置されており、バスの中にトイレを設けた日本初のバスになります。

その後、他のバスにも改造で取り付けられることになるのです。

Willerが自社のバスからトイレを廃止するという話が出ているようですが、自動車にトイレを設けたのは、国鉄バスが最初だったのは記憶にとどめておいていただきたいと思います。

バスの車内、右後方に見える個室が車内トイレ

左の写真が、トイレの様子。

狭い車内を効率的に使うため、当時としては珍しい洋式便器が設置されています。

 

なお、高速バスは高速運転で安定して運転できるとともに快適に乗車できるように鉄道同様、空気ばねを採用しており、昭和38年の生活水準からすれば冷暖房完備、車内トイレ設置はかなりハイグレードだったのではないでしょうか。

バスの定員は40名で、自動車の性能を以下に箇条書きにしてみたいと思います。

 

エンジン出力 290PS

最高速度 135/h 

4段階リクライニングシートが装備

なお、車内トイレは、タンク式となっており最低2日間は使用できるだけの容量を確保しているとのこと。

 

なお、高速バス事業については、バス事業が13社で競願となったため過当競争を避けるため調整が行われ、最終的に、日本急行バス(名鉄・京阪・阪急・近江鉄道などが出資)と、日本高速自動車(近鉄・阪神・南海の3社が出資)した2社+国鉄バスの運行となったそうです。

その後、自家用車の増加などで業績が低迷して日本急行バスは、名鉄バスに、日本高速自動車は、近鉄単独となり現在は、名鉄近鉄バスになっているそうです。
いずれにしても、高速バスの始祖は、国鉄も加わっていることを知っておいてくださいね。
なお、余談ですが昭和43年には東名高速道開通に伴い、下写真の新たな高速バスが開発されますが、この時初めて東京〜大阪・京都までの夜行便(ドリーム号)が運転されており、この時点でも民間では東京〜名古屋 名古屋〜大阪の運転にとどまっており、現在の夜行バスのルーツも実は国鉄バスであったということを併せて知っておいていただきたいと思います。
画像は、勝手の交通科学博物館(弁天町)で展示されていた高速バス

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国鉄があった時代 JNR-era
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気動車 昔話 機械式気動車の話

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非電化区間を走る電車のことを一般的には「気動車(ディゼルカー)」と呼びますが。

鉄道ファンの間では、気動車と電車は全く別物であることは周知のことですが、一般の人からすればみんな電車ですからね。苦笑

液体式気動車

さらに、昔の人だったら電車と言わず、汽車ですから。

「記者は汽車で帰社した」・・・なんていう書き取りをした記憶がありますが、同じ音で漢字が違うので外国人泣かせですよね。

特に中国人にしてみれば、なまじ漢字が似ているだけに余計に混乱するようです。

 

気動車の方式は?

さて、そんな無駄話はともかくとして、

一般的に気動車と呼ばれるものは、液体式が圧倒的多数を占めています。

最近は、電気式なんていうのも出てきていますが、まだまだ液体式があっと的多数を占めているようです。

軽量化という点では電気式よりも有利であることに変わりはないです。

実は、戦前、そして戦後すぐにも電気式は試作されているのですが、いつか使われなくなったという流れはあります。

さて、今回お話するのは、液体式でも電気式でもなく第3の方式です。

第3の方式とは?

外観

第3の方式などと書きましたが、機械式と呼ばれる方式がありました、最近は自動車もオートマチック(AT車)が増えていますがその昔は、クラッチを使って変速しながら運転していました。

九州の鉄道資料館に保存されているキハ07を見ると運転台の横にバスのようなギアチェンジのレバーを見ることが出来ます。
本来鉄道のメリットは複数の車両を繋いで運転することが出来るのがメリットなのですが、機械式気動車の場合は、バスを連続して繋ぐようなものですから、連結した場合はその車両ごとに運転士が乗務していたと言われています。
出発時などは、汽笛を合図にクラッチを繋いだと言われています。
昔の画像などを見ると、3両編成で走っている動画などが見られますが、その運転には相当の技量を擁したのではないでしょうか?

キハ07による実際の運転の様子が3:00くらいから見ることが出来ます。

 

機械式のメリット、デメリット

機械式のメリットは、軽量化にありました。

エンジンとトランスミッションだけですから、出力の小さかったエンジンであっても軽量化した車両を製作することが出来ました。
クラッチペダル
実際には、それ以前に日本車両が開発した車両をベースにしたキハ04からの流れをくむ軽量車体も貢献していますが、19mの車体で160PSのエンジンで105km/h程度まで出したと言われています。
その反面、先ほども書きましたが、総括制御が出来ないため運転士が一人一人乗らなくてはならず、最初のスタートのクラッチは合わせることが出来たとしてもその後の変速などはやはり警笛を使っての運転であったろうと思いますが、かなり至難の業で有ったろうことは容易に想像がつきます。

室内
 

Youtube のキャプチャー以外は、blackcat(加藤好啓)撮影