2022.04.15 Friday
2022.04.15 Friday
生産性運動の頃、国鉄職場で起こった実際の話
以下は、国鉄部内紙
国有鉄道の1971年8月号の瓦版繁盛記というコラムに記載された記事をそのままアップしたものです。
当時[生産性運動が国鉄全体で行われていた頃、国鉄の職場では数々の嫌がらせが行われていました。
当時のこうした陰湿な行為が、国鉄の職場で行われていたという事実を知っていただこうと思います。
瓦版繁盛記
こんなことがあっていいのか
「今のこの世の中で,しかも都会のド真ん中で、こんなことがやられています。あえて問題を提起します。(5.20違法ストのあとの出来ごとです。)」
注:ここで書かれている5.20違法ストとは下記のストライキを指します。
国労・動労72時間スト 5/18〜5/20
公労協関係の今年の春闘は、4月末の統一行動を手始めに全国縦断ストにはいった首都圏の国電各線は約70%が運休。国鉄は「輸送異常事態」を宣言して国電全駅で乗車券の発売を一時停止、私鉄への振替え輸送、時差通勤などによって大きな混乱はなかった
- 18日 北海道・東北・広島・九州など全国23拠点の時限スト
- 19日 同拠点で順法闘争
- 20日 首都圏の国電を中心に東海道・東北・常磐線などで始発から大規模な24時間スト
20日夕両労組ともストを中止。全国の運休列車は旅客2624本、貨物1724本、全国で900万人、首都圏だけで800万人の足が乱れた
●ある集団がA氏の宿舎附近に,夜半,自動車で乗りつけ
「月夜の晩ばかりではないぞ」
「可愛いい娘を犯してやるぞ」
黒枠のビラ,香典袋など約30枚を貼って逃げた。
●あるレクでは、
乗り継ぎ交代の際、スト不参加の職員が詰所に腰かけていたところ
「こいつは伝染病だから近寄るな」
「あとに腰かけると感染するぞ」
このような悪口雑言をまき散らしていた。
●ある駅の,、
詰所の氏名札に「裏切者」と書いた紙を貼ってあった。
●ある機関区の,
乗務員室前の組合掲示板につぎのようなビラを約40枚掲示した。
(注)氏名は仮名
●或る職員(複数)のロッカーからシャツを引き出し、これに「のり」をべったりとつけ汚損,帰宅しようとしているところに、石を投げる etc のいやがらせをした。
また,掲出ビラの中には「1に追放,2に追放, ......3,4がなくて5に墓場」
●あるヤードで、乗員者の1人が約30センチの手製の人形をヒモでつり,「忠夫ちゃん忠夫ちゃん」(○○駅白田忠夫氏(仮名)のこと)と言って、他の動員者といっしょに踏んだり、けったりして白田氏をののしった。
その後,上り本線のレールの上に人形をのせ、次に「田中!」(仮名)と称して「しかれろッ」と言って右足で踏みつけた。
別の日に、某運転詰所前附近に手製の人形(赤帽子をかぶせ,助役の服装をした等身大)をもって
きて、動員者約10名が、その人形を地面に数回投げつけ、そのたびに「えーぞ」......「えーぞ」と奇声をあげていた。
その後も引続き,人形に○○○○と名前をつけ、けったり、打ったりした。
夕方、某構作係は、人形を時計台にぶらさげ,「○○くたばれ」とののしり,また,「死刑だ」などと叫びながら、腹部をけったりした。
5月22日
あるレクの職員のロッカーに入れてあったタバコ数個と車補入れカバンに水がかけられていた。
ついで24日、ロッカーに入れてあった正帽のき章がとられ、正面中央部が11センチほど切られていた。
●ある職員が、自家用の自動車を運転中,どうも具合がよくないので調べたところ、ガソリンタンクの中に砂糖が投入されているのがわかった。
以上のような嫌がらせが職場の中で行われていたというのはいささか残念であります。
なお、この記事が当時の国鉄部内紙国有鉄道(主に管理局などの非現職員や助役駅長などが主な読者層幹部クラスが)出会ったように思われますが、そうした雑誌にこの記事が掲載されたことは意味があると言えます。
2019.10.15 Tuesday
マル生運動とその後の国鉄 プロローグ
JUGEMテーマ:国鉄
マル生運動ってどんなものだったのか?
マル生運動
マル生運動は、正式には、生産性運動と呼ばれるもので、昭和45年からスタートした国鉄再生のための運動でした。
磯崎総裁が提唱し、当時の職員課長が中心となって、計画を練り上げていったのでした。
職員一人一人の生産性を高め、結果的にその成果を労働者が受け取る、現在の民間労組では当たり前の考え方を、日本生産性運動本部の協力を経て実戦しようとしたものでした。
そして、この方向は鉄労が提唱する民主か方針と合致していたこともあり、一部の純粋な中間管理職(助役クラス)が、生産性運動を国労から鉄労に移籍させることだとして、国労等からの脱退を勧告したとして、国労・動労が反発、マスコミを巻き込んだ大キャンペーンを展開、国会でも問題となり、そこで、行き過ぎた行為があったとして総裁が謝罪、生産性運動の無期限延期(実質的な中止)を宣言したというもので、最後の「国会で陳謝した・・・」この部分だけがクローズアップされて一人歩きするものですから、マル生運動=国鉄の黒歴史とか、悪というイメージだけがつきまとう結果となってしまいました。
その辺の状況は、拙blog日本国有鉄道 労働運動史(別館) で書かせてもらっておりますので、興味ある方はぜひご覧いただければ幸いですが、簡単に概略を申し上げれば、国鉄が昭和39年に赤字に陥り、その後も政府の意向などで運賃値上げがままなら時代がありました。
高度経済成長のさなかにあって、国鉄は赤字とはいえ、長期計画などで首都圏の鉄道整備、(5方面作戦)などの大規模設備投資を行っていました。
石田禮助は初めて辞任することなく引退した総裁
民間出身の石田禮助氏の国鉄との付き合いは、昭和36年の監査委員の頃からであり、比較的すんなりと決まったようです、また赤字初期には、採算の悪化が予測された5方面作戦や、山陽新幹線の建設を決定するなどして、周囲には「借金ができるうちは花だよ」として積極的経営を進めましたが、その反面、運賃改定などはままならず、昭和43年には累積積立金も食い潰して完全な赤字体質になってしまいました。
このとき、緊縮財政を打っていれば、もしくは、新幹線に関しては公共事業として国に出資を求めていたら・・・又違った世界になっていたかもしれません。
ただ、現場では評判は悪くなく、言うべき所ははっきり言うところが労使ともに信頼されるところとなりました、その反面、 荒舩清十郎衆議院議員が運輸大臣に在任していた当時、高崎線の深谷駅に急行停車させた際にはは、武士の情けとして釈明したなどの逸話もあります。結局2期目の途中、昭和44年5月に高齢を理由に引退(83歳)副総裁で、国鉄生え抜きの磯崎氏が総裁に昇格することになりました。
磯崎氏は、鉄道省の官僚であり、国鉄発足後は国鉄官僚としてエリート街道を歩いてきた人だけに、官僚の悪い面と、国鉄一家の純粋培養の典型的な性格を持っていました。下にはめっぽう強く出るが、マスコミや代議士にはからきしだめであったと言われています。・・・、それ故に、国会に証人尋問されることになると、最後は保身に走り、マル生運動自体を中止(答弁では、無期限の休止)と発表しました、結局、ここで踏ん張らずに、実質的な中止を宣言してしまうこととは、国鉄には大きな失点となりました。その辺は当時の職員課長であった大野光基氏は、著書「国鉄を売った官僚たち」で厳しく批判しています。
そもそもマル生運動と呼ばれるようになったのか?
マル生運動と呼び出したのは、国労・動労がマスコミなどにそのような伝えた方をしていたからで、国鉄では生産性運動と呼んでいました。
ただ、生産性運動関連の書類には、赤丸で生の字を囲んだスタンプが押されていたためでした。
ただ、マルセイ運動という言葉が一人歩きして、というか、国労・動労がその潤沢な資金を武器にマスコミへ掲載を依頼したことが、国鉄当局や、労使協調路線の鉄労にとっては痛手となりました。
特に、生産性運動では、国労・動労を辞めて鉄労に入る人も多かったのですが、こうした人たちは反動分子としてそれこそ、いじめの対象となったのでした。
また、総裁が国会で陳謝し、生産性運動の無期限延期(実質的な廃止)を宣言したことで、それまで生産性運動こそが国鉄を救う道と信じて愚直に働いてきた、助役(中間管理職)の意識を一気に失わせることになりました。
これにより、物言わぬ管理者とか、管理者冬の時代といえる、そんな時代が10年近く続くことになりました。
そんな管理者冬の時代が終わるのは昭和57年頃なのですが、今回の趣旨とは異なるため割愛させていただきます。
2019.07.05 Friday
blog統合のお知らせ
弊ブログですが、国鉄があった時代blog(https://blog.goo.ne.jp/blackcat_kat)に統合移転させていただくことにしました。