鳥羽駅のことどれくらい知っていましたか?

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鳥羽駅を御存じでしょうか。
三重県の鳥羽市にある駅で、鳥羽水族館などの最寄り駅ですので、御存じの方も多いかと思います。
この駅を見ていますと、近鉄の駅にJRが間借りしているようなイメージを持たれますが、元々はJR鳥羽駅の方が歴史は古く、明治44年7月には参宮線の終点として、開業しています。
その後、鳥羽駅に接続する形で、昭和4年7月には、志摩電気鉄道が狭軌で、鳥羽〜真珠巷間を開通させたそうです。【真珠港は賢島から先にあった】
なお狭軌で建設された経緯は、志摩電気鉄道が真珠養殖資材を運ぶことを目的としていたためで、昭和40年代には真珠養殖自体が斜陽化したこともあり、赤字が増加、近鉄に買収されることになるのですが、仮に志摩鉄道が独立を保ち若しくは独自に国鉄への買収を求めていたら、鳥羽地区に於ける近鉄とJRの力関係がもう少し変わっていたかもしれません。

 


 

更に戦前は、お伊勢参りが盛んで、優等列車も多数運転されていましたし、戦後も、昭和28年9月には東京を結ぶ急行「伊勢(いせ)」が復活するなど、活況を呈していました。
伊勢(いせ)神宮、二見浦(ふたみがうら)と回るのが当時のはやりであり、今も残る宿屋に当時の隆盛をしのばせてくれます。
この頃の伊勢・鳥羽地区の主役はあくまでも国鉄鳥羽駅でした。

 

さて、今回はこのまま鳥羽駅のお話をさせてもらっても良いのですが、今回は鳥羽駅の駅上家【いわゆるホーム屋根)に注目してみたいと思います。

今でもJR鳥羽駅で使用されているホームの屋根ですが、建設されたのは昭和29年頃らしいのですが、支柱はジュラルミン製と書かれています。【国鉄線、昭和30年12月号の記事より】、当時の写真を見るとホームすぐ横が海辺であり、調べて見ますと現在の近鉄ホームがあるあたりは埋め立て地であったことが分かりました。


左側が海岸線のように見えますが、実際この付近は海岸であり、現在は海岸が広がる付近には近鉄のホームが広がっています。

 

今回blogを書こうと思って資料を探していて、鳥羽駅の新しい駅上家と書かれていましたので、そこからいろいろと調べていくとこうした面白い事実がいろいろと判明しました。
ちなみに、近鉄が鳥羽まで乗り入れるのは、昭和45(1970)年3月1日であり、万博とからメタ観光客入り込みを目指したのではないかと思われます。
ちなみに、元々鳥羽駅に接続していた志摩電気鉄道は、元々はJR線の南側【山側)に線路がありましたが、標準軌化工事と鳥羽線との接続に際して現在の配線に変更されました。
そのため、ホームの番号に振り方が変則になっています。下図参照

Wikipediaから引用

元々は、下記の場所付近から志摩電鉄の線路が延びていたようです。

その名残で、鳥羽駅の番号の振り方だけは変則になっています。

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幻の急行用気動車

急行形気動車と言えば、キハ28・58と言われるほど多数製造され、かつ活躍した気動車でした。

昭和44年から急行気動車の冷房化推進のための電源車を確保するため、キハ91で開発されたDML30HS機関を用いたキハ65が製造されました、その後昭和50年3月には試験的に将来の急行にも使える汎用気動車としてキハ66・67が試作されますが、重量が重くローカル線への入線が困難なことや、国鉄の財政が急速に悪化したこともあり、普通列車用には冷房装置を省略してエンジンもDMF15HS系エンジンの出力をダウンさせて冗長性を持たせたキハ40系列【キハ47・40】が誕生しました。

国鉄形最後の急行気動車キハ65
画像 Wikipedia 急行用気動車の最後の新製車となったキハ65

その後、キハ28・58の老朽化置き換え対策として、新型急行気動車が再び計画されたそうです。

それが、下図に示す新型急行気動車のイメージとなります。

現在の技術であればコルゲート板は要らないのですが、当時の設計ですのでボディ全体にコルゲートが巻かれています。

交通技術、昭和56(1981)年8月号に掲載されていた記事で、内容は以下に列記してみたいと思います。

 

幻急行気動車
昭和56年頃、キハ28・58の置換え用として構想された新形気動車

ステンレスボディとしたのは、純粋に軽量化が目的のようで、昭和48年以降の石油ショックなどで燃料費が高騰したこともあり、更なる軽量化と、軽量エンジン(DML30H系ではなく、小型化したDMF15H系エンジンを高出力化)等により今後予測されるキハ28・58の大量置換えするための車両としたいと書かれています。

当時の冊子からの抜粋ですが、下記のように車体は軽量ステンレス若しくはアルミかなどで車両の軽量化を図るか、20m車体に拘らないとしています。

JR四国に投入された、キハ32などは、車両の小型化で対応した例になります。

さて、そこで国鉄の新型急行気動車は、キハ28・58を取り替えるための気動車として計画したいと書かれており、その基本方針は

今後のディーゼル急行車両は、特急列車の走らない非電化支線区における優等列車用を中心として、相当両数のニーズが見込まれるとして、

  1. 省エネルギー化
  2. 省力化
  3. 製作コストの低減
  4. 台車走行性能向上
  5. アコモの近代化

を基本的な考え方で開発していきたい。

と書かれていました、実際には急行列車は特急列車に一本化【運賃収入を上げることを主たる目的としたもので、急行は原則として今後は設定せず、特急若しくは快速に分化させる方向で進むことになりました。

本社旅客局からの要請が大きかったと言われております、結局急行用気動車は新製せず、更新修繕程度で留め、特急に格上げするか利用率が悪い場合は車両はそのままで快速化することになりました。

 

なお、車両自体は幻に終わってしまいましたが、当時の資料を見ますと下記のような諸元を考えていたようです。

  1. 軽量ステンレスで1両当たり2.5〜3.5tの軽量化が可能。
  2. 新系列のDMF15系の直噴化等による省エネルギー化と出力向上(330PS)により、機関自体の軽量化
  3. 1軸駆動方式による台車の軽量化

これらにより、省エネルギー化および保守費の縮減、製作コストの低減をねらっていきたい。

とされています。

さらに、台車のばね下重量を極力軽くし、走行特性を確保するとともに、軌道に与える車両の影響を少なくする台車構造としたいと書かれており、当時の国鉄ではローカル線への軌道保守は極限まで放置してい蛸とが窺えます。

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万博こぼれ話 新大阪駅が簡易宿泊所になった話

国鉄の部内誌、国有鉄道という雑誌から見かけたお話から。

今回は、1970年に大阪千里山丘陵で開催された日本万国博覧会(EXPO'70)のこぼれ話として、新大阪駅での話です。

駅での宿泊は、当時も今も営業時間以外は開放されておらず、最終列車が到着すると駅を閉鎖してしまいます、当時のお話では新大阪駅は24時間開放していたようです。

現在は廃止されていますが1階飲食店街(味の小路)付近が団体待合室となっていたそうです。

この団体待合室が、万国博見学者の臨時宿泊所になったというお話です。

 

当時の雑誌を参照しますと、万国博覧会が始まった3月15日以降に、団体待合室で夜を明かす人が出てきたそうで、これが日に日に増えていったそうです。

その殆どが、万国博を見学するためにやってきた人たちで、駅舎に宿泊することで旅館代を浮かそうということだったそうで、冷暖房完備の、待合室は椅子での仮眠という点を除けば、安く宿泊できるとして誰いうとも無く始まったようでした。

実際、当時は新大阪駅から大阪市営地下鉄【現・大阪メトロ】に乗車して、江坂からは北大阪急行に乗り入れる直通列車が万博中央駅まで走っていましたので、地下鉄で降りてそのまま団体待合室で夜を明かすと言うことになったのかもしれません。

当初は、その対応に苦慮していたようですが、当時は、ミニスカートが流行した時代であり、そうした女性も多く、夜間に痴漢被害となっても困るということから、本来であれば鉄道営業法37条に基づき退出願うところでしたが、最終的には「ここで夜明かしされる方も新幹線を利用するお客様であり、たまたま旅館が満員、もしくは経済的な理由でやむを得ず団体待合室で夜を明かしているのだ」という駅長の判断の元、団体待合室での宿泊が認められたのでした。

そこで、公安としても、駅に協力することとなり、団体待合室を宿泊所代わりに利用する人たちを把握するために宿帳ならぬ待合室帳を作り住所・氏名などを書いてもらうようにしたそうです。

最近では、「個人情報ガー」と言って拒否する人も出てくるかもしれませんが、当時はスムーズに運用できたようです。

記録によりますと、7月末日現在で4109名うち外国人は313名であり、いささか国際色豊かな簡易宿泊所?ができあがったそうです。

現在も新大阪駅に団体待合所があったら、外国人観光客【バックパッカー】で占領?なんてことになっていたかもしれないですね。

万国博に絡む、国鉄時代のお話でした。

 

 

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食堂車と営業事業者割り当てのお話

1960年代、優等列車には食堂車は必ず連結されていた。

1960年代の国鉄では優等列車と呼ばれた急行以上には原則として食堂車が連結されていました。

当時は、特急列車の本数も少なく、特急は文字通り、「特別な急行」でありおいそれと乗れると言う雰囲気ではありませんでした。

そこで、一般には急行(普通急行)を利用するのが一般的であり、夜行列車・昼行列車に限らず、多くの食堂車がこれら列車に連結されていました。

さて、この食堂車ですが、当然のことながら国鉄が直接経営していたわけではなく、業者に委託する形となっていました。

その代表格は、日本食堂でした。

日本食堂【通称にっしょく】は、列車食堂を営業していた 伯養軒(仙台)と駅構内で食堂などを経営していた精養軒(上野)・東松亭(大阪、後の水了軒)・みかど(神戸)・東洋軒・共進亭が共同で出資した会社だそうで。(この項目はwikipedia参照)

列車食堂というと「にっしょく」というイメージが強かったのですが、にっしょく自体は昭和13年に設立と有りますから、戦前から日食は食堂営業していたみたいなのですが、帝国ホテルも特急列車を中心に洋食を提供していたように記憶しているのですが、いかんせん資料が見当たりませんでした。
ご存じの方おられましたらご教示いただけると幸いです。
さて、記事は国鉄線の昭和43年10月号からキャプチャーしたものですが、列車食堂の割り当てが決まったと書かれています。
当時の食堂車では、当然のことながら什器類は全て会社持ちであり、受持ち列車が変わる場合は什器類は全て入れ替えだったそうで、国鉄からの貸与品というのはなく、作り付けのコンロなど以外は食堂事業者の負担だったそうです。
気の毒なのは、機関士の運転ミスで大きく車体が揺れたりして什器類が割れてしまったなんてこともあったそうですが、その時も国鉄は責任を負わなかったそうです。
これは、余談でしたが。
下記の話を見ていますと、「特急とき」で昭和37年に聚楽が食堂車営業に参入したのですが、特急ときは最初は日本食堂がリ業していたようで、昭和43年に初めて1往復聚楽に割り当てたと書かれています。
これは私も知らなかったです。
さらに、意外だったのが、鉄道弘済会が普通急行列車ですが、32.5往復の列車の列車食堂の営業をしていたと言う事実脱も驚かされます。
それと、0.5往復と言うことは片道ですので、こうした場合は当然のことながら終着駅で什器類を降ろして、別の列車に入れ替えると言ったことを繰り返していたのでしょうね。

 

 

 

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国鉄時代の二条駅、備忘録

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二条駅とは、山陰本線にある駅ですが、実はこの駅のことを調べて行くと色々と面白いことが見えてきました。

 

二条駅は、日本で二番目に古い現存駅舎だけでなく、戦前はある荷物の取扱量でも日本で2番目だったそうです。

ちなみに、1位は、秋葉原だったそうです。

 

ちょっと考えてみてくださいね。

 

 

実は、二条駅で日本2位の到着を誇ったのは、薪炭(炭)でした。

二条駅は、京都の中心部になるのでここから西陣地区を中心に洛中と言われた京都市内に配送されたそうで、二条駅の北側にはそうした薪炭を扱う問屋が軒を並べていたそうです。

二条駅

鉄道が開通するまでは、高瀬川(運河)で洛中まで運ばれていたそうですが、鉄道の開通により鉄道で運ばれるようになったと言われています。

 

同じように、京都市内の暖房用などの石炭も一手に引き受けていたそうで、駅構内には貯炭場が設けられていたと言います。

 

その後、エネルギー政策の転換で石炭は石油に替わり、石炭や薪炭の扱いは減少し、その代わりの目玉となったのが自動車でした。

二条駅で実は、新車の自動車の受け入れを行っていたそうで、二条駅から滋賀・鳥取方面に向けて自動車が配送されていたそうです。

ただ、スト権ストで一気に信用を失い、自動車輸送は廃止になってしまいました。

貨物輸送が不振になってからは、広いヤードは今度は留置車両の保管場所となり、583系などが一時期留置されていました。

583系

余談ですが、583系が近郊型電車に改造されることになったのか・・・単に寝台電車が余剰になったからという理由だけでなく、電気機器を更新していたことも理由だったと言われています。

実際、583系電車は昼夜兼行電車でしたから、走行距離は通常の電車と比べれば倍走ることになりますので、電装品の劣化も早く50年代に更新が行われていたからと聞いたことがあります。
何れにしても、二条駅で留置されていた583系も419系などに改造されて活躍、寝台電車としての活躍の時期よりも近郊型電車での活躍の時期の方が長かったような気がします。
二条駅の話から、全く違った方向に行ってしまいましたね。
申し訳ございませんでした。