EXPO'70で運転された、臨時快速

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大鉄局が設定した二つの快速

  • 小中学生の万博見学に配慮した、臨時快速
  • 万博帰宅者に特化した深夜、臨時快速
大阪鉄道管理局(以下、大鉄)は、万博輸送に関して、臨時快速電車を設定しました。
それが、下記の列車で、万博号という愛称がついた快速列車で、三往復が設定されていました。
  • 下り列車 07:39 河瀬発→09:16 茨木着(万博1号)
  • 下り列車 16:17 茨木発→18:14 姫路着(万博3号)
  • 下り列車 21:17 茨木発→23:10 姫路着(万博5号)

同様に、上り列車は
  • 上り列車 07:50 姫路発→09:42 茨木着(万博2号)
  • 上り列車 16:30 茨木発→18:18 姫路着(万博4号)
  • 上り列車 21:21 茨木発→22:47 姫路着(万博6号)
当時としては珍しく、下り奇数、上り偶数の番号設定
快速列車ですが、当時の列車名は上りも下りも1号から始まる番号なのですが、この快速は、下り列車は奇数が、上り列車は偶数が付定されていました。
車両に関しては、快速形としか書かれていませんが、113系電車が使用されたものと思われます。
この愛称尽き快速以外に、茨木市止まりの快速電車や、管理局跨がりの快速、「エキスポ号」が設定されています。
下り列車 07:22 名古屋発 →新大阪 10:39(エキスポ1号)
下り列車 08:44 名古屋発 →新大阪 11:45(エキスポ2号)
上り列車 18:20 新大阪発→名古屋 21:22(エキスポ1号)
何故か?エキスポ2号は運転されていません。
と書いたのですが、昭和45年7月の時刻表では、エキスポ2号が運転されています、ちなみに運転時刻は、
上り列車 16:01 新大阪発→名古屋 19:30(エキスポ2号)
となっています。
なんとも、不可解な話ですが。苦笑
なお、5月の連休及び夏休みには、エキスポこだま、大阪〜三島間のみ夜行運転、三島で新幹線に乗り換える列車が運転されています。
スペースの関係上、一部割愛させていただきました。

153系非電化線区を走る

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昭和38(1963)年の鉄道ファンを見ているとなんともユニークな記事を見つけました。

それは、それまでは寄せ集めの気動車などで運転されていた、臨時準急、汐風号が153系で運転されたという記事です。

運転区間は、中野〜館山まで、運転期間は、7月20日から8月18日までの約1ヶ月間でした。

 

現在と異なり、レジャーと呼べるものが少ない当時は、夏場と言えば海水浴ということで、房総半島の海へいく人は大変多かったのです。昭和50年頃まで夏になると、「青い砂」、「白い砂」という快速電車も運転されていました。

 

房総半島に優等列車が走ったのはかなり遅く、昭和33年7月に準急犬吠号が運転を開始したのが最初と言われています。

 

この列車が運転された、昭和38年頃は、千葉以遠は電化されておらず、乗入れ列車は、館山まで電車は運転できません。

そこで、DD13重連+電源車を電車の前にいで、運転されました。

編成は、田町電車区の153系6両編成が入線したそうです。

車番は、中野方 クハ153-518 モハ153-23 モハ152-23、モハ153-31、モハ152-31 クハ153-519 館山方

の編成だったそうです

当初はC57が電車を牽引する予定だったとか。

当時の写真を見ますと、立派なヘッドマークも装着されており中々立派です。

鉄道ファン 通巻28号 昭和38年10月号から引用

 

尾灯が蓄電池式を装着しているのもご愛敬です。

 

記事によりますと、DD13は非重連形のため双方に乗務員が乗務して汽笛の合図で力行、惰行を行うほか、次位の電源車操作のために運転員が乗務しており運転関係だけで3名の大所帯であったと記録されています。

 

 

調べて見ますと、翌年昭和39年にも、夏季シーズンに前橋区の80系電車を使用して、汐風号が運転されたとされていますが。

それほどデイーゼルカーも不足していたと言うことなのでしょうか。

 

参考ものぐさ親父の「いまさら鉄ちゃん!?」 https://c59176.blog.so-net.ne.jp/2011-07-27

 

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昔の物語 隅田川駅

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今なら、ブラック企業だとか、ブラック職場だ言われそうですが,今から半世紀前のころは、こうしたことが美談となったそうです。

現在は、コンテナしか扱わない駅ですが、昭和61年10月31日までは、手小荷物輸送を扱っていました、国鉄の荷物輸送は、その前近代的な輸送方法(駅への持ち込みまたは、受け取り)が嫌われ、後発のヤマト運輸に代表される宅配便事業にその役割を奪われて縮小していくのですが、宅急便が誕生していない昭和45年頃は、小荷物輸送は国鉄に頼らざるを得ない状況であり、記事にもあるように、年末になると大変な量の荷物が運び込めれたそうです。

一日平均8万個が、年末になると16万個強と倍以上に膨れ上がり、荷役場は山盛り状態の荷物で溢れかえったと書かれています。

そこで、各職場から自発的に応援が入ったと書かれています。

少しだけ、その部分を引用させていただこうと思います。

 

同駅は設備の機械化が進んでいないため人海戦術に頼らざるを得ない状態であるが、昨年暮には東京北局の本局をはじめ電車区、磯関区、学園、賢材センターの人達が延べ約1,000名も自発的にかけつけ山積みする荷物の処理にあたった。また、職員の奥さんも登場し、茶のサービスや荷扱用手袋の洗濯をするなどの光景が見られた。これは生産性運動の影響で各現場から無報酬,自発的な応援の手が差し伸べられたと見られ、同駅では大いに感謝していた

以上、国鉄部内誌、国有鉄道 昭和46(1971)年2月号に掲載されていた記事です。

 

まぁ、応援は良いとしても、無報酬というのは今の時勢ではたちまち,ブラック職場だと言われそうですが、実際に昭和40年代というのはこんな時代であったと言えますね。

 

近代化しつつあるところと、未だ人海戦術に頼らざるを得ない職場が混在している、そんなカオスな時代であったと思います。

その反面、色々な意味でコミュニケーションが取りやすかったのではないかと思うんですね。

お互い様だから・・・みたいな。

 

しかし、その反面、反マル生運動者からみると、「マル生運動に洗脳された」と言うんでしょうね。

 

国鉄という職場は,良くも悪くも純粋な人が多い職場だったと思います、それ故に極端から極端に走りやすかったと思います。

この例などもその好例ですね。

 

 

直接関係ありませんが、上記画像は、大阪百済駅の様子,年末は特にこうした光景が各所で見ることが出来ました。

 

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串本節こぼれ話

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串本節はとある理由から全国区になった

和歌山の串本町は、潮岬を町内に持つ本州最南端の町ですが、勝浦と白浜の間に挟まれた町になります。

そこで古い国鉄の部内誌を見ていますと、面白い記事を見つけましたので、ご覧いただこうと思います。

串本と言えば、民謡の串本節というのがありますが、串本節が日本中に広まるきっかけとなったのが、下記のような理由だったそうです。

この記事では、日本三大民謡と書かれていますが、最近は三大民謡と言わないようですね。

さて、この記事によりますと、元々は、荒天がきっかけになったと書かれています。

本文から引用しますと

大正13年6月、アメリカの水上飛行機が世界一周で串本へ着水する予定と言うことで、新聞記者やカメラマンが30人ほど待機したが悪天候のため、飛行機は来訪しないまま10日ほど足止めされてしまい、そこで気を遣った町長が、報道関係者を招いて土地の民謡を披露したことがきっかけであったそうです。

これが大評判となり、取材を終えた人たちが口伝えに替え歌にしたりしてどんどん広めていったと書かれています。

まぁ、今度機会があったら、串本町観光協会史というのを参照してみたいですね。

串本観光協会のホームページには残念ながらその辺の話は載っていませんでした。

 

 

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鳥羽駅のことどれくらい知っていましたか?

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鳥羽駅を御存じでしょうか。
三重県の鳥羽市にある駅で、鳥羽水族館などの最寄り駅ですので、御存じの方も多いかと思います。
この駅を見ていますと、近鉄の駅にJRが間借りしているようなイメージを持たれますが、元々はJR鳥羽駅の方が歴史は古く、明治44年7月には参宮線の終点として、開業しています。
その後、鳥羽駅に接続する形で、昭和4年7月には、志摩電気鉄道が狭軌で、鳥羽〜真珠巷間を開通させたそうです。【真珠港は賢島から先にあった】
なお狭軌で建設された経緯は、志摩電気鉄道が真珠養殖資材を運ぶことを目的としていたためで、昭和40年代には真珠養殖自体が斜陽化したこともあり、赤字が増加、近鉄に買収されることになるのですが、仮に志摩鉄道が独立を保ち若しくは独自に国鉄への買収を求めていたら、鳥羽地区に於ける近鉄とJRの力関係がもう少し変わっていたかもしれません。

 


 

更に戦前は、お伊勢参りが盛んで、優等列車も多数運転されていましたし、戦後も、昭和28年9月には東京を結ぶ急行「伊勢(いせ)」が復活するなど、活況を呈していました。
伊勢(いせ)神宮、二見浦(ふたみがうら)と回るのが当時のはやりであり、今も残る宿屋に当時の隆盛をしのばせてくれます。
この頃の伊勢・鳥羽地区の主役はあくまでも国鉄鳥羽駅でした。

 

さて、今回はこのまま鳥羽駅のお話をさせてもらっても良いのですが、今回は鳥羽駅の駅上家【いわゆるホーム屋根)に注目してみたいと思います。

今でもJR鳥羽駅で使用されているホームの屋根ですが、建設されたのは昭和29年頃らしいのですが、支柱はジュラルミン製と書かれています。【国鉄線、昭和30年12月号の記事より】、当時の写真を見るとホームすぐ横が海辺であり、調べて見ますと現在の近鉄ホームがあるあたりは埋め立て地であったことが分かりました。


左側が海岸線のように見えますが、実際この付近は海岸であり、現在は海岸が広がる付近には近鉄のホームが広がっています。

 

今回blogを書こうと思って資料を探していて、鳥羽駅の新しい駅上家と書かれていましたので、そこからいろいろと調べていくとこうした面白い事実がいろいろと判明しました。
ちなみに、近鉄が鳥羽まで乗り入れるのは、昭和45(1970)年3月1日であり、万博とからメタ観光客入り込みを目指したのではないかと思われます。
ちなみに、元々鳥羽駅に接続していた志摩電気鉄道は、元々はJR線の南側【山側)に線路がありましたが、標準軌化工事と鳥羽線との接続に際して現在の配線に変更されました。
そのため、ホームの番号に振り方が変則になっています。下図参照

Wikipediaから引用

元々は、下記の場所付近から志摩電鉄の線路が延びていたようです。

その名残で、鳥羽駅の番号の振り方だけは変則になっています。

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