今回は国鉄と言う訳ではないのですが・・・。

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今回のお話は、国鉄時代のお話ではなく、この度JR西日本が新製した35系客車のお話。

 

すでに、Twitterなどで、話題になっていますが。

山口号の12系置換え用客車として5両編成が出揃ったようですね。

当初の計画では、展望車はダブルルーフのマイテ49風となっていましたがTwitter等でアップされている動画を見る限りでは、丸屋根で製作されているみたいですね。

特に驚かされたのは、旧形客車に見られたシルとヘッダが再現されていることや、ガーランド式ベンチレータがダミーでしょうがついていることに驚かされます。

連結面を見るとジャンパー線が並んでいて、現在の客車だなぁと思わせてくれるのと、クーラーも出来るだけ目立たない様に工夫している点が泣かされます。

 

そして、このオハ35系、特徴的なのは屋根の両端が絞り込まれていることです。

引用 JR西日本やまぐち号客車            丸屋根と言うのですが、これは戦前型の客車の特徴であり、戦後は客車のr両端を絞らない、切妻式と呼ばれる客車が製造されました。

 

さて、今回JR西は35系客車と言う名称になるのでしょうか?新形客車を製造しましたが、どこまでも国鉄時代を彷彿させてくれますね。

ちょうど銀河鉄道999がヒットした1980年前後に、銀河鉄道999のように、外観は昔の客車そのもので中身は最新の技術を導入した車両が誕生しないかと真剣思ったものですが、まさか本当に誕生するとは夢にも思いませんでした。

外観を見る限りでは、台車こそボルスタレスの軽量台車のように見えますが、全体に昔の雰囲気を上手く表現していますよね。欲を言えばクーラーのキセを屋根と一体化したら完璧だったろうなぁと勝手に思っています。

まぁ、この辺は鉄道オタクな発想過ぎますよね。笑
12系客車改造のレトロ用客車も引退し、9月からは新型客車が運転されるそうですが、この新しいやまぐち号客車も末永く走っていただきたいものですね。
画像 Wikipedia
しかし、財政赤字から梅小路蒸気機関車館も昭和54年頃に一時期閉館という話もありましたが、当時の国鉄により存続が決定しました、動態保存機の変更を行うとともに、やまぐち号の運転が開始されました。昭和54年8月1日のことです。
これ以降、毎年運転されることになり、JR化以降各地でのSL復活運行などにも繋がったと言えます。
国鉄時代、山口線で走らせるようにした背景には、新幹線を利用者などを見込んででのことであったと言われています。
余談ですが、東海道線では、「京阪100年号」の事故でさすがに蒸気機関車の運転は難しくなっていますし、現行ダイヤでは蒸気機関車の本線運転はかなり厳しく、C62はその巨体を持て余しています。(しらさぎ号(誤→京阪100年号(正)に訂正)
何時の日か、山陰本線で、山口号用の新型客車を連結してその雄姿を見てみたいものです。笑

 

 

寝台車と毛布の話 ヨンサントウとサービス向上

皆様今晩は、本日も国鉄線の記事から少し興味の持っていただけそうなお話をさせていただこうと思います。

5月1日からJR東日本による四季島が運転を開始しました

画像 Wikipedia

 

現在、寝台列車を連結した列車はこうしたリゾートトレインの他にはサンライズ位ですが、昭和40年代にはまだまだ全国で数多くの寝台列車が運転されていました。

昭和45年10月時刻表から


昭和43年10月の「国鉄線」と言う部内誌lで見かけた内容から、ちょっと面白いものをアップさせていただきます。

 

この記事では、それまで管理局単位で調達し、仕様もバラバラであった寝台車に使用する毛布の仕様を本社で、材質・形状・寸法に至るまで統一して旅客サービスの向上を図るとともに、作業性を向上させたと言う記事です。

国鉄時代は結構、管理局単位で仕様等を決めて調達すると言う例が多く、例えば寝台特急のヘッドマークも当初は鉄道管理局が独自に始めたものであり、管理局ごとに其仕様はまちまちでした。

国鉄線 昭和43年10月号から引用

 

東京機関区や宮原機関区(大鉄局がヘッドマークを付け始めてから東京も付けたように記憶していますが、誤っていましたらご指摘願います)では、標準的と言うかこの形が後の標準になるのですが円筒形のマークであったのに対し、九州では伝統的におわん型が採用されていたようです。

国鉄末期に復活した時もおわん型のヘッドマークでした。

九州鉄道記念館にて 歴代のブルートレインヘッドマーク 撮影blackcat

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このように、国鉄時代は管理局単位で仕様等を決めていることが多かったのですが、旅客サービスよりも経費の節減を意識しすぎて調達価格の安さばかりに目が行って「安かろう・悪かろう」の商品を調達している傾向があるとして、本社が改めて標準仕様を策定の上調達したと書かれています。

 

具体的には、それまで使われてきた合繊毛布(アクリル混合)に代えて外観。弾力性、耐用性、保温性に優れた純毛毛布に変更、記憶が正しければ、クリーム色の純毛の毛布で結構厚くて白のシーツが別途かけられていました。


こうした施策は、旅客サービスの向上につながるだけでなく、乗務員からに要望も有ったからと言われています。
と言いますのは、合繊毛布では、カバーを取り外す際静電気が発生するので、純毛毛布に替えて欲しいと言う要望が有ったそうです。

 

昭和43年10月【通称ヨンサントウ】に投入される新製及び改造寝台車245両から本社規格による純毛毛布が採用されたと書かれており、それ以後も順次本社仕様になっていったと思われます。

1975年(昭和50年)3月9日(岡山駅にて)撮影 blackcat

秋葉原と力士の意外な関係

秋葉原と言えば

 

今は、電気街というよりもヲタクの街、もしくは萌の街とでも表現するほうがわかりやすい秋葉原駅ですが、昭和60年代までは電気の街としての印象が強いのですが、元々秋葉原駅は上野駅の貨物を扱を分離することを目的に建設されたもので元々は貨物駅であったそうです。


建設されたのは、明治23年11月1日であったそうです。

 

秋葉原と力士の意外な関係

 

現在と異なり、荷物の積み下ろしなどは当然のことながら人力だったのですが、そうした荷物の積み下ろしをしていたのが意外なことに力士でした。
元々、大相撲の起源は、両国にある回向院と言う浄土宗のお寺だそうです。
ここで1781年(天明元年)以降には、境内で勧進相撲が興行されたそうで、力士も多く出入りしていたのでしょう。

秋葉原駅の荷物の積み下ろし荷役に回向院から力士に頼んで手伝ってもらっていたそうです。
その後、この力士のアルバイトは、廃業力士や角力くずれの人たちの本業となっていったそうです。

秋葉原駅には今も秋葉原構内にがあるのか否かは知りませんが。力士たちが力自慢に使っていたという、20〜30貫(112.5kg)の力石があったと言われています。
現在はどうなっているのでしょうか、ご存じの方がおられましたら是非ご教示ください。

雨の日も風の日も、寒い日も暑い日も、荷物を肩に担いだり、背負ったりして運搬したと言われています。

秋葉原駅

昭和35年頃の秋葉原駅(画像 wikipedia)

高架部分から荷物はシューターで降ろされるようになっており、当時の様子は小学館発行の「交通」にイラストが載っており、幼稚園の頃に飽きずにその本を眺めていたものです。


実際に、昭和30年代まで国鉄の荷役と言うのは殆どが人力によるもので、トラックで運ばれてきた荷物を貨車に積替えて。再び到着駅でトラックに積み替えると言うことが行われていました。

結果的にそうした作業の積替えロスなどが発生することが嫌われて道路の整備とともに徐々に貨車による車扱い輸送は減少していくこととなりました。

ワム80000

(画像 wikipedia)

 

ただし、貨物輸送に関してはコンテナ方式の導入や、車扱いであっても、パレットに載せてリフトで積卸できるように、ワム80000形貨車が試作されるなどしました。

 

時代は変わり、貨って秋葉原が貨物駅であったことを知っている人も少なくなったかと思いますが、秋葉原で、力士が荷役の仕事をしていたとは私も知りませんでした。

 

国鉄線の記事から