昭和30年代における、自動車の鉄道輸送

皆様こんにちは、今回も国鉄線見つけた面白い記事について書かせていただこうと思います。

国鉄における自動車輸送と言えば、ク5000を使った自動車輸送を覚えておられる方も多いかと思います。


画像 Wikipedia

 

自動車専用列車として、新車を運ぶのに使われ自動車の移動には汚れや傷を防止するため、車カバーがかけられていたのを写真で見た記憶があります。

ただ、古い写真を見ていますと移送時はカバー等を被せずに運転していたこと写真もあり、カバーしていたのは写真撮影用なのかそれとも・・・・と思うのですが、自動車カバーを収納させる場所を設けていたと言う記述もあるのでその辺はご存知に方おられましたらご教示いただければ幸いです。

百済駅における車両積卸風景 天鉄局30年史のアルバムから引用
なお、国鉄時代のク5000は1900CCまでの車を10台、20000cc以上で8台、軽自動車で12台を積載できるようになっていたそうですが、これから紹介するのは、専用貨車の「シム1000形」と呼ばれる私有貨車です。他にもダイハツがシム2000、三菱自動車もシム3000形と呼ばれる同系車をだしているようです。
今回も国鉄線昭和37年10月号に掲載されていた記事を参照しながらお話を進めたいと思います。
なお、閲覧にはパスワードが必要ですので、興味のある方は財団法人交通協力会のトップページからアクセスしてパスワードを取得されては如何でしょうか。
ということで画像等は、国鉄線昭和37年10月号から借用いたしました。
早速見ていきたいと思います。
何とも厳めしい車両ですが、これが車を運ぶ貨車ですと言われても正直ピンとこないかと思います。
実は、この貨車に6台の車が乗るのです。
実はこのように、貨車をクレーンで吊るしながら積み上げたそうです、この写真ではパブリカを積んでいるようですが、こんな方法で本当に大丈夫と心配してしまいます。
実は、この写真からは見えにくいのですが、下の段に2台の車が積んであります。
その証拠写真がこれ
既にナンバーも付いている車もあるのが興味深いのですが、何ともアクロバティックな積み方ですよね。
もう一枚
ちなみに初代パブリカですが、
ここに本文を記入してください。
幅  1415mm
高  1380mm
であり、車両限界が幅3.0mですので、下の2台は隙間は数センチしかなかったのではないかと思います。
昭和37年の国鉄線の記事によりますと、昭和30年代後半には新車の配送はその多くが自ら車をディラーまで運転して配送するのが一般的でコストも安くなるので積極的に自走になったそうですが、人件費の高騰などでその方法も必ずしも有利は無くなってきたことから再び鉄道を利用してもらえる気運が高まったことから、効率よく積載できる貨車を開発することとしたそうで、トヨタ自動車に中部支社(当時は支社制度があり、支社の配下に各管理局が設置されていました。)が働きかけて私有貨車を作ってもらいそれを国鉄が輸送する形態となったものでした。
上に載せる自動車は専用パレットであり、回送時は積み重ねて発送駅まで戻るようになっていたようです。
結果的に、こうした貨車を作ったことがその後より効率的に運べるク5000を生み、その利用も爆発的に増えるのですが、昭和48年頃から相次ぐ国鉄のストライキや運賃値上げ等から利用が低迷したそうです。
昭和53(1978)年10月には、日産自動車の輸出用自動車を輸出港に運ぶ専用列車「ニッサン号」が宇都宮貨物ターミナル〜本牧埠頭間で運転されましたが、こちらも 昭和60(1985)年3月ダイヤ改正で自動車の鉄道輸送はひとまず終了しますが。翌昭和61(1986)年5月に再び「ニッサン号」の運転が再開しましたが、往年の華やかさはなく、平成8(1996)年3月にク5000による運行は廃止されたとされています。
今は一部は、コンテナ車による輸送が行わたと聞いております。

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名神高速バス 最初の一歩

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皆さまこんばんは、現在は東名高速道路には昼夜を問わず、高速バスが走り、特にWILLER EXPRESSに代表される、高速バス事業者やそれ以外の中小のツァーバスを含め数多くのバスがJRの夜行列車に代えて全国にそれこそ走っています。

私も、夜行バスをよく利用するのですが、夜間の高速のパーキングエリアなどでは高速バスとトラックでSA(サービスエリア)を占領しているのではないかと思わせるものがあります。

Wiiler Express

今は高速バスがこれほど走っているわけですが、そもそも高速バスのスタートは国鉄であったと意外に思われる方も多いのではないでしょうか。

日本最初の高速道路が開通したのは、名神高速道路、栗東インターチェンジ(IC)〜尼崎インターチェンジ(IC)間(71.7km)が昭和38年(1963)7月16日に開通したことから日本の高速道路の歴史は始まりました。

国鉄では昭和36年から高速道路専用バスの試作を行ったそうです。

最初の試作車は昭和36年には早くも出来上がっていたそうで全体に丸っこくて、パッと見たときにどちらが前なの?と思わせるスタイルでした。下図参照

国鉄線昭和38年

国鉄線、昭和38年8月号から引用

 

こちらのblogに当時の試作車に関連する記事が出ていましたので、リンク貼らせていただきます。

https://ameblo.jp/yamaya-1210/entry-11899738497.html

 

その後改良が加えられ、高速道路が開業する直前には、高速バス専用車が完成しています。

その車両が下の写真になります。

試作車の頃と比べるとずっと洗練されています。

もちろん、今の感覚で言うと古臭さは禁じ得ませんが・・・・

側窓は、当時のアメリカの客車を彷彿させるような窓ですが、このバスの特徴は高速バスであるということから窓は全て密閉式となっていました。

また、車両最後部には車内トイレが設置されており、バスの中にトイレを設けた日本初のバスになります。

その後、他のバスにも改造で取り付けられることになるのです。

Willerが自社のバスからトイレを廃止するという話が出ているようですが、自動車にトイレを設けたのは、国鉄バスが最初だったのは記憶にとどめておいていただきたいと思います。

バスの車内、右後方に見える個室が車内トイレ

左の写真が、トイレの様子。

狭い車内を効率的に使うため、当時としては珍しい洋式便器が設置されています。

 

なお、高速バスは高速運転で安定して運転できるとともに快適に乗車できるように鉄道同様、空気ばねを採用しており、昭和38年の生活水準からすれば冷暖房完備、車内トイレ設置はかなりハイグレードだったのではないでしょうか。

バスの定員は40名で、自動車の性能を以下に箇条書きにしてみたいと思います。

 

エンジン出力 290PS

最高速度 135/h 

4段階リクライニングシートが装備

なお、車内トイレは、タンク式となっており最低2日間は使用できるだけの容量を確保しているとのこと。

 

なお、高速バス事業については、バス事業が13社で競願となったため過当競争を避けるため調整が行われ、最終的に、日本急行バス(名鉄・京阪・阪急・近江鉄道などが出資)と、日本高速自動車(近鉄・阪神・南海の3社が出資)した2社+国鉄バスの運行となったそうです。

その後、自家用車の増加などで業績が低迷して日本急行バスは、名鉄バスに、日本高速自動車は、近鉄単独となり現在は、名鉄近鉄バスになっているそうです。
いずれにしても、高速バスの始祖は、国鉄も加わっていることを知っておいてくださいね。
なお、余談ですが昭和43年には東名高速道開通に伴い、下写真の新たな高速バスが開発されますが、この時初めて東京〜大阪・京都までの夜行便(ドリーム号)が運転されており、この時点でも民間では東京〜名古屋 名古屋〜大阪の運転にとどまっており、現在の夜行バスのルーツも実は国鉄バスであったということを併せて知っておいていただきたいと思います。
画像は、勝手の交通科学博物館(弁天町)で展示されていた高速バス

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国鉄があった時代 JNR-era
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気動車 昔話 機械式気動車の話

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非電化区間を走る電車のことを一般的には「気動車(ディゼルカー)」と呼びますが。

鉄道ファンの間では、気動車と電車は全く別物であることは周知のことですが、一般の人からすればみんな電車ですからね。苦笑

液体式気動車

さらに、昔の人だったら電車と言わず、汽車ですから。

「記者は汽車で帰社した」・・・なんていう書き取りをした記憶がありますが、同じ音で漢字が違うので外国人泣かせですよね。

特に中国人にしてみれば、なまじ漢字が似ているだけに余計に混乱するようです。

 

気動車の方式は?

さて、そんな無駄話はともかくとして、

一般的に気動車と呼ばれるものは、液体式が圧倒的多数を占めています。

最近は、電気式なんていうのも出てきていますが、まだまだ液体式があっと的多数を占めているようです。

軽量化という点では電気式よりも有利であることに変わりはないです。

実は、戦前、そして戦後すぐにも電気式は試作されているのですが、いつか使われなくなったという流れはあります。

さて、今回お話するのは、液体式でも電気式でもなく第3の方式です。

第3の方式とは?

外観

第3の方式などと書きましたが、機械式と呼ばれる方式がありました、最近は自動車もオートマチック(AT車)が増えていますがその昔は、クラッチを使って変速しながら運転していました。

九州の鉄道資料館に保存されているキハ07を見ると運転台の横にバスのようなギアチェンジのレバーを見ることが出来ます。
本来鉄道のメリットは複数の車両を繋いで運転することが出来るのがメリットなのですが、機械式気動車の場合は、バスを連続して繋ぐようなものですから、連結した場合はその車両ごとに運転士が乗務していたと言われています。
出発時などは、汽笛を合図にクラッチを繋いだと言われています。
昔の画像などを見ると、3両編成で走っている動画などが見られますが、その運転には相当の技量を擁したのではないでしょうか?

キハ07による実際の運転の様子が3:00くらいから見ることが出来ます。

 

機械式のメリット、デメリット

機械式のメリットは、軽量化にありました。

エンジンとトランスミッションだけですから、出力の小さかったエンジンであっても軽量化した車両を製作することが出来ました。
クラッチペダル
実際には、それ以前に日本車両が開発した車両をベースにしたキハ04からの流れをくむ軽量車体も貢献していますが、19mの車体で160PSのエンジンで105km/h程度まで出したと言われています。
その反面、先ほども書きましたが、総括制御が出来ないため運転士が一人一人乗らなくてはならず、最初のスタートのクラッチは合わせることが出来たとしてもその後の変速などはやはり警笛を使っての運転であったろうと思いますが、かなり至難の業で有ったろうことは容易に想像がつきます。

室内
 

Youtube のキャプチャー以外は、blackcat(加藤好啓)撮影

今回は国鉄と言う訳ではないのですが・・・。

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今回のお話は、国鉄時代のお話ではなく、この度JR西日本が新製した35系客車のお話。

 

すでに、Twitterなどで、話題になっていますが。

山口号の12系置換え用客車として5両編成が出揃ったようですね。

当初の計画では、展望車はダブルルーフのマイテ49風となっていましたがTwitter等でアップされている動画を見る限りでは、丸屋根で製作されているみたいですね。

特に驚かされたのは、旧形客車に見られたシルとヘッダが再現されていることや、ガーランド式ベンチレータがダミーでしょうがついていることに驚かされます。

連結面を見るとジャンパー線が並んでいて、現在の客車だなぁと思わせてくれるのと、クーラーも出来るだけ目立たない様に工夫している点が泣かされます。

 

そして、このオハ35系、特徴的なのは屋根の両端が絞り込まれていることです。

引用 JR西日本やまぐち号客車            丸屋根と言うのですが、これは戦前型の客車の特徴であり、戦後は客車のr両端を絞らない、切妻式と呼ばれる客車が製造されました。

 

さて、今回JR西は35系客車と言う名称になるのでしょうか?新形客車を製造しましたが、どこまでも国鉄時代を彷彿させてくれますね。

ちょうど銀河鉄道999がヒットした1980年前後に、銀河鉄道999のように、外観は昔の客車そのもので中身は最新の技術を導入した車両が誕生しないかと真剣思ったものですが、まさか本当に誕生するとは夢にも思いませんでした。

外観を見る限りでは、台車こそボルスタレスの軽量台車のように見えますが、全体に昔の雰囲気を上手く表現していますよね。欲を言えばクーラーのキセを屋根と一体化したら完璧だったろうなぁと勝手に思っています。

まぁ、この辺は鉄道オタクな発想過ぎますよね。笑
12系客車改造のレトロ用客車も引退し、9月からは新型客車が運転されるそうですが、この新しいやまぐち号客車も末永く走っていただきたいものですね。
画像 Wikipedia
しかし、財政赤字から梅小路蒸気機関車館も昭和54年頃に一時期閉館という話もありましたが、当時の国鉄により存続が決定しました、動態保存機の変更を行うとともに、やまぐち号の運転が開始されました。昭和54年8月1日のことです。
これ以降、毎年運転されることになり、JR化以降各地でのSL復活運行などにも繋がったと言えます。
国鉄時代、山口線で走らせるようにした背景には、新幹線を利用者などを見込んででのことであったと言われています。
余談ですが、東海道線では、「京阪100年号」の事故でさすがに蒸気機関車の運転は難しくなっていますし、現行ダイヤでは蒸気機関車の本線運転はかなり厳しく、C62はその巨体を持て余しています。(しらさぎ号(誤→京阪100年号(正)に訂正)
何時の日か、山陰本線で、山口号用の新型客車を連結してその雄姿を見てみたいものです。笑

 

 

寝台車と毛布の話 ヨンサントウとサービス向上

皆様今晩は、本日も国鉄線の記事から少し興味の持っていただけそうなお話をさせていただこうと思います。

5月1日からJR東日本による四季島が運転を開始しました

画像 Wikipedia

 

現在、寝台列車を連結した列車はこうしたリゾートトレインの他にはサンライズ位ですが、昭和40年代にはまだまだ全国で数多くの寝台列車が運転されていました。

昭和45年10月時刻表から


昭和43年10月の「国鉄線」と言う部内誌lで見かけた内容から、ちょっと面白いものをアップさせていただきます。

 

この記事では、それまで管理局単位で調達し、仕様もバラバラであった寝台車に使用する毛布の仕様を本社で、材質・形状・寸法に至るまで統一して旅客サービスの向上を図るとともに、作業性を向上させたと言う記事です。

国鉄時代は結構、管理局単位で仕様等を決めて調達すると言う例が多く、例えば寝台特急のヘッドマークも当初は鉄道管理局が独自に始めたものであり、管理局ごとに其仕様はまちまちでした。

国鉄線 昭和43年10月号から引用

 

東京機関区や宮原機関区(大鉄局がヘッドマークを付け始めてから東京も付けたように記憶していますが、誤っていましたらご指摘願います)では、標準的と言うかこの形が後の標準になるのですが円筒形のマークであったのに対し、九州では伝統的におわん型が採用されていたようです。

国鉄末期に復活した時もおわん型のヘッドマークでした。

九州鉄道記念館にて 歴代のブルートレインヘッドマーク 撮影blackcat

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このように、国鉄時代は管理局単位で仕様等を決めていることが多かったのですが、旅客サービスよりも経費の節減を意識しすぎて調達価格の安さばかりに目が行って「安かろう・悪かろう」の商品を調達している傾向があるとして、本社が改めて標準仕様を策定の上調達したと書かれています。

 

具体的には、それまで使われてきた合繊毛布(アクリル混合)に代えて外観。弾力性、耐用性、保温性に優れた純毛毛布に変更、記憶が正しければ、クリーム色の純毛の毛布で結構厚くて白のシーツが別途かけられていました。


こうした施策は、旅客サービスの向上につながるだけでなく、乗務員からに要望も有ったからと言われています。
と言いますのは、合繊毛布では、カバーを取り外す際静電気が発生するので、純毛毛布に替えて欲しいと言う要望が有ったそうです。

 

昭和43年10月【通称ヨンサントウ】に投入される新製及び改造寝台車245両から本社規格による純毛毛布が採用されたと書かれており、それ以後も順次本社仕様になっていったと思われます。

1975年(昭和50年)3月9日(岡山駅にて)撮影 blackcat